新橋の夜に、
34年。
1992 年、ガード下の小さな焼鳥屋として始まりました。
看板も、焼台も、ほとんど変わっていません。
一本ずつ焼く、ただそれだけです。
父が、最初の店主でした。
「とり伊」は、私の父が 1992 年に始めた、新橋ガード下の小さな焼鳥屋です。8席のカウンターと、2卓のテーブル。それしかありません。焼鳥と日本酒、それだけの店です。
父はもともと、銀座の老舗焼鳥店で 20 年焼台に立っていました。50 歳で独立し、自分が選びたい鶏を、自分が選びたい銘柄の酒と組み合わせる店を、と。看板の文字は、父が筆で書いたものです。今もそのまま残しています。
毎日食べても、飽きないものを焼くんだ。
父の口癖でした。確かにそうだな、と店を継いでから、毎日、思います。
大学を出て、3年、回り道を。
私(鳥居 伊知郎)は、大学を出てすぐ、店を継ぐ気はありませんでした。建築の会社に 3 年、勤めました。スーツを着て、図面を引いて、それなりに楽しかったのですが。
27 歳のとき、父が手の腱を痛めました。週に何日か、店を手伝うようになって、気づきました。焼台の前に立つと、頭が静かになる。図面を引いているときには無かった感覚でした。
3 ヶ月後、会社を辞めて、父の隣に立ちました。最初の 5 年は、ねぎまも焦がしました。皮もパサつかせました。父は何も言わずに、私の隣で焼いていました。だんだん、私の焼鳥にも、お客さんが「うまい」と言ってくれるようになりました。
下手だった、と思った日は、もっと美味い。
2015 年、二代目就任。
父は 70 歳のとき、焼台を私に譲りました。2015 年の春です。「お前のやり方で、お前のとり伊を作れ」と。看板はそのままで、焼台と仕入れだけ、少しずつ変えていきました。
変えたこと:鶏は鳥取・大山どりと、名古屋コーチンに切り替えました。日本酒のラインナップは、当時の 8 種から 25 種に増やしました。新政、十四代、而今、若い世代の酒蔵を意識的に入れました。
変えなかったこと:8 席のカウンター、テーブル 2 卓、現金のみ、日曜定休。看板も、焼台も、メニューの基本も、父の代のままです。
「変わらないように見えるけど、よくよく見ると、ちゃんと変わってるな」と、常連さんに言っていただいたことがあります。それが、私の答えのつもりです。
店の、時間。
34 年目から、先のこと。
息子は 22 歳、今は別の業界で働いています。継ぎたければ継いでくれ、別の道を行きたければそれでいい、と伝えています。店は、無理に残すものではありません。
ただ、私が焼ける限りは、明日も焼きます。新橋のガード下で、8 席のカウンターを、変わらない場所として開けておきたいと思っています。
「いつでもある店」が、町の中に何軒かあること。それが、私が父から受け取った、いちばん大事なことかもしれません。
遠方からのお客様も、はじめての方も、ふらっとお立ち寄りいただければ嬉しいです。
カウンターに、ひとつ席を空けてお待ちしております。